隅田川のほとり・・・豊島PartU「六義園逍遥」

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zoom RSS 六義園の常磐・堅磐

<<   作成日時 : 2017/06/01 20:40   >>

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17 常磐 (ときは)
「常のいはほ」とよむ

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18 堅磐 (かきは)
「かたきいはほ」とよむ。
何(いづれ)も岩の名として、妹背のみち、長久ならん事を祈る。
「常磐」「堅磐」といふ詞(ことば)、神書におほし。『中臣祓(なかとみばらへ)』にも、ありと覚ゆ。
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常磐(17.ときは)・堅磐(18.かきは)は、それぞれ六義園八十八境の一つ。常磐とは永久不変な岩の事で、転じて永久不変なことをいいます。堅磐はかたい岩で、常磐と二つでセットで用いられて、永遠の岩という意味です。六義園では、妹山・背山の山裾に置かれ「妹背のみち」の長久を祈っています。夫婦の交わりが堅く、永遠であることを願って名づけられた境です。
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写真@ 堅磐(左)と常磐(右) 撮影:2010年2月27日
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写真A 常磐・堅磐は中之島の妹山・脊山の右の麓に並んであります。撮影:2012年11月24日

常磐・堅磐という詞は、和歌などに祝いの心で詠まれておりますが、多くは神道の祝詞(のりと)などで「永遠の繁栄」を祝う詞として用いられます。「中臣祓」「中臣寿詞(なかとみのよごと)」及び和歌を次に記します。

【中臣祓】
中臣祓(なかとみはらえ)は、毎年6月と12月に朝廷で催された大祓(おおはらえ)の祝詞(のりと)、つまり大祓詞(おおはらえのことば)のことで、中臣祭文(なかとみさいもん)とも言います。中臣氏が代々司る役目なのでこう呼ばれるようになりました (資料1、2) 。なお、六義園記注解では「なかとみばらえ) 」と訓読されています。
祓(はらえ、はらい)は、神道の宗教行為ですが、中世には僧侶・陰陽師(おんみょうじ)なども中臣祓を自分たちの儀礼に取り込み行っていました。現在でも僧侶が中臣祓を行っている事例として、東大寺修二会「大中臣祓」「中臣祓」があります。(資料3.)
祝詞(のりと)とは、儀式など改まった場面で、神を祭り、また、神に祈るときに神前で唱える古体の言葉。現存する最古のものは「延喜式」所収の27編と、藤原頼長の日記「台記(たいき)」所収の中臣寿詞(なかとみのよごと)1編のことです。
延喜式(えんぎしき)とは、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)一つです。905年(延喜5年)、醍醐天皇の命に始まり、927年(延長5年)に完成しました。全50巻からなり、巻1から 巻10が神祇官関係の式で、この部分を神祇式(じんぎしき)と言います。巻8 が 祝詞の式です。(資料4.)
神道は、先土器時代・縄文時代にはじまり、仏教伝来、神仏習合と複雑で、今の私の手には負えないので、中臣寿詞の一部に常磐・堅磐の言葉がありますので紹介して次に行きたいと思います。

「千秋(ちあき)の五百秋(いほあき)の相嘗(あひにへ)にあひうづのひまつり、堅磐に常磐に斎(いは)ひまつりて、茂(いか)し御代(みよ)に栄えしめまつり」

【常磐、堅磐が詠まれた和歌】
『万葉集』九二二、神亀二年乙丑の夏五月、芳野離宮に幸す時に、笠朝臣金村の作る歌 并せて短歌
皆人の命も我れもみ吉野の滝の常磐の常ならぬかも 

◇大意[反歌二]:皆々の命も、私の命も、吉野の滝激流に打たれてなお不動の岩のように、永久に不変であってくれないものか。(千人万首より)
◇神亀二年(725年)5月、聖武天皇の吉野行幸に際して詠んだ歌。
◇笠金村(かさのかなむら、生没年未詳)は、奈良時代の歌人。『万葉集』に45首を残し、特に神亀年間(724〜729年)に長歌6首を詠み、車持千年(くりまもちのちとせ)・山部赤人と並んで歌人として活躍しています。
以下[国歌大観]より
ヒトミナノ イノチモワレモ ミヨシノノ タキノトコイハノ ツネナラヌカモ
人皆乃    寿毛吾母    三芳野乃   多吉能床磐乃   常有沼鴨
みなひとの いのちもわれも みよしのの たきのときはの つねならぬかも

『万葉集』巻十八・四〇六四 大伴宿祢家持
大君は 常磐に在さむ 橘の 殿の橘 直照りにして 

◇訳:我が大君はいつまでも変わりなくおられるんだろう。橘卿の御屋敷の橘も一面に照り輝いている。(資料5)
◇(元正)天皇は、いつまでも変わりなくいらっしゃることでしょう。橘家(諸兄卿)の御殿の橘の実も一面に照り輝いております
◇天平十六年(744年)、皇都となった難波での宴に不在の家持が、宴に思いを馳せて橘諸兄の政権での活躍を期待し皇室へのいや増しの貢献を祈りつつ詠んだ歌。
大伴家持について→六義園・初春(2011/1/18)

以下[国歌大観]より
オホキミハ トキハニマサム タチバナノ トノノタチバナ ヒタテリニシテ 
大皇波   等吉波尓麻佐牟 多知婆奈能 等能乃多知婆奈 比多底里里尓之弓
おほきみは ときはにまさむ たちばなの とののたちばな ひたてりにして

『新古今若集』巻七・七二六、寛治八年(1094年)関白前太政大臣高陽院(かやのゐん)歌合に、いはいの心を、康資王母
よろづよを松のを山のかげしげみ君をぞいのるときはかきはに

◇訳:万代の繁栄を待ち望んで、松尾山の木陰が常磐に茂っているので、同じくわが君が幾久しくお栄えになられることを祈ります。(資料6)
◇康資王母(やすすけおうのはは、生没年未詳)は、筑前守高階成順(なりのぶ)と伊勢大輔の間の娘。神祇伯延信(のぶざね)王の妻となり、康資王を生む。後冷泉天皇の皇后四条宮寛子に仕え、筑前の通称で呼ばれた。藤原師実(もろざね)ら時の権力者に寵愛され、歌会で活躍する。

資料
1、百科事典マイペディア/世界大百科事典 第2版/HP
2. 小学館/デジタル大辞泉/HP
3. 中臣祓の実践と注釈 - 國學院大/HP
4. ウィキペディアフリー百科事典から抜粋/HP
5. 新日本古典文学大系4、「萬葉集四」佐竹昭広他4名校注、岩波書店
6. 新日本古典文学大系11、「新古今和歌集」田中裕・赤瀬信吾校注、岩波書店

加筆・修正:2017年(平成29年)6月1日(木)晴
初回日:2012年12月1日
撮影場所:六義園(東京都文京区本駒込6-16-3)
撮影機材等:Canon EOS Kiss X2、18-50mmF2.8
修正:常盤→常磐 :2017/06/11

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