隅田川のほとり・・・豊島PartU「六義園逍遥」

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zoom RSS 六義園の詞華石 

<<   作成日時 : 2017/06/27 21:56   >>

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 20 詞華石(ことばのはないし)
花のやうなる紋(もん)あり。
詞のはなといふは、和哥の事なれば、和哥の浦の石なるゆへに、縁(ゆかり)をとるなり。

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詞華石(20 ことばのはないし)は六義園八十八境の一つ。華のような模様があることに加えて、和歌の浦に置かれている石なので、「和歌=詞の華」の石という意味で「詞花石」と名づけられた境です。
玉藻磯(6.たまものいそ)で千載集は鎮魂歌集であり、特に崇徳院の慰撫が撰集の目的であると述べました。和歌の歴史そのものである紀川を流れて、和歌の聖地「和歌の浦」に流れ込んだ歌の数々をかきあつめた千載集には、崇徳院主催の『久安百首』から歌が多数採られています。詞華石の場所は、紀川が和歌浦に流れ込む場所―中の島に入る仙禽橋を渡った左手―にあります。とすると、「詞華石」は暗に崇徳院の『詞花和歌集』を暗示しているのではないでしょうか。   参照 →4.心泉  →6.玉藻磯

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 写真:詞華石   撮影2010/08/09

『久安百首(きゅうあんひゃくしゅ)』
久安百首は、近衛天皇の御代、鳥羽上皇の院政下(本院)において、康治(こうじ)年間(1142年〜1144年)に崇徳院(新院)によって題が下され、久安六年(1150年)に初度奏覧がなされました。翌年、院は百首の部類を俊成に命じ、俊成は仁平(にんぺい、にんぴょう)二年(1152年)中に主題別に部類配列し奏覧しましたが、これが通称『久安百首』部類本と呼ばれる第二次本です。
和歌の歴史の上で、天皇、上皇の勅命によって作られた最初の百首歌は、堀河院による『堀河百首(ほりかわひゃくしゅ)』(1105年頃)で、以後の百首歌はみな『堀河百首』に倣っています。『久安百首』は、崇徳院みずからを含む15人の歌人が百首ずつ詠んでおり、全体にレベルが高いのが特徴です。 勅撰集への入集も多く、『千載和歌集』に126首、百人一首には崇徳院(77)、藤原顕輔(79)と待賢門院堀河(80)が採られています。(資料1より抜粋)

77 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ     崇徳院
79 秋風に たなびく雲の たえ間より 漏れ出づる月の 陰のさやけさ    左京大夫顕輔
80 ながからむ 心も知らず 黒髪の 乱れてけさは ものをこそ思へ    待賢門院堀河
(77〜80:資料2) 

『詞花和歌集』と顕輔−俊成
「詞花石」から「崇徳院」と来れば、『詞花和歌集』(しかわかしゅう)は外せません。この集は、天養元年(1144年)に崇徳院(新院)が下命し、藤原顕輔(ふじわらのあきすけ、1090〜1155年)が撰者となって編集、仁平元年(1151年)に完成奏覧しています。『詞花集』の歌は清新な叙景歌に特色があるほか、詠懐調の歌も多く見られ、その歌風は多様です。(ウィキペディアより)
『久安百首』で述べましたが、仁平二年(1152年)中に俊成の『久安百首部類本』ができています。六条藤家”顕輔”と御子左家”俊成”の対立が暗示されます。そういえば、妹背山の西麓に藤原清輔(父は顕輔)の歌から採られた「23.裾野梅」の境が造られている・・・考えすぎでしょうか。

◇崇徳院の慰撫
崇徳院をなぜ後白河院が慰撫しなければならないのか。それには崇徳院の生涯を知る必要があります。概略を記すと次のようになります。
崇徳院(すとくいん1119〜1164年)は鳥羽天皇の第一皇子ですが、『古事談』において実父は白河法皇と伝えられています。母は待賢門院藤原璋子です。
保安四年(1123)、鳥羽天皇より譲位され、五歳で即位。七十五代天皇となりました。保延五年(1139)、鳥羽院の室・美福門院得子に躰仁(なりひと)親王が生まれると、鳥羽院は同親王を皇太子に立て、永治元年(1142)十二月に崇徳天皇を退けて三歳で即位させました(近衛天皇、鳥羽天皇の第九皇子、母は美福門院藤原得子)。以後、鳥羽院を本院、崇徳院を新院と称しました。
近衛天皇は久寿二年(1155)七月に17歳で崩じ、崇徳院は子の重仁親王の即位を望んだが、鳥羽第四皇子の雅仁親王(同母弟―母は待賢門院璋子)が即位しました(後白河天皇)。
翌年の保元元年(1156)七月二日、鳥羽院が崩御すると、崇徳上皇・後白河天皇は互いに兵を集め、ついに内乱に至ります(保元の乱)。十一日未明、後白河方の奇襲に始まった武力衝突は、その日のうちに上皇方の完敗に決着しました。
崇徳院は讃岐に流され、松山(現坂出市)の配所に移される。八年後の長寛二年(1164)、同地で崩御、白峰(しらみね、現香川県坂出市の白峰宮。明治の神仏分離の折、崇徳院御霊は京都白峯神宮へと戻されています)に埋葬されました。安元三年(1177)、崇徳院の諡号が贈られました。(ウィキペディアより)

◇崇徳院の怨霊
上記は序奏です。讃岐に流された後に詠んだ歌には、悲嘆の感情はうかがえても、自らを配流した者への怒りや恨みといった怨念は見られません。
『風雅和歌集』九三七、松山へおはしまして後、みやこなる人のもとにつかはさせ給ひける、崇徳院御歌
おもひやれみやこはるかにおきつなみたちへだてたるこころぼそさを

画像
写真:歌川国芳『百人一首之内』より「崇徳院」画

讃岐に流された崇徳上皇を描いた歌川国芳(うたがわくによし、1798〜1861年)の画です。右上には、下記の内容が書かれています。(資料3)
百人一首之内 崇徳院
瀬をはやミ岩にせかるるたき川の
われてもすえにあはんとそおもふ

詞花集恋の部に入る こゝろハ瀬のはやき川の水の
岩にせゝかれて左右へわかれても 末にハまたあふ
ものなれどつらき人にわかれてハ後にあひがたき
習ひなるをわりなくても末に逢んと思うハはかなき
事ぞとうち嘆きたるハ実に意味ふかき御哥なり

何故このような浮世絵が書かれたのでしょうか。『保元物語(ほうげんものがたり)』によれば、崇徳院は讃岐国で仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経(『法華経』・『華厳経』・『涅槃経』・『大集経』・『大品般若経』)の写本を作り、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河院は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返しました。これに激しく怒った崇徳院は、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったとされている。崩御するまで爪や髪は伸ばしたままであった。また崩御後、崇徳の棺から蓋を閉めてるのにも関わらず血が溢れてきたと言う。(ウィキペディアより)  ★ま‐えん【魔縁】悪魔が人の心を迷わせること。また、その悪魔。(デジタル大辞泉の解説)
この話が、千載和歌集撰集の目的の一つです。

◇覚え
■小倉百人一首に採られた詞花集・千載集の歌
百人一首(ひゃくにんいっしゅ、ひゃくにんしゅ)は、100人の歌人の和歌を、一人一首ずつ選んでつくった秀歌撰(詞華集)です。中でも、藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだとされる小倉百人一首(おぐら ひゃくにん いっしゅ)は歌がるたとして広く用いられています。この小倉百人一首には、詞花和歌集(顕輔撰)から四首、千載和歌集(俊成撰)から十六首が採られています。(資料2. 読みやすいように句の間を空けています。)

◇詞花和歌集(顕輔撰)から

48 風をいたみ 岩打つ波の おのれのみ くだけてものを 思ふころかな     源重之
49 御垣守 衛士のたく火の 夜は燃え 昼は消えつつ ものをこそ思へ   大中臣能宣朝臣
76 わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波     法性寺入道前関白太政大臣
77 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ     崇徳院

◇千載和歌集(俊成撰)より

55 滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ   大納言公任
61 いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に 匂ひぬるかな    伊勢大輔
64 朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木   権中納言定頼
67 春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなくたたむ 名こそ惜しけれ   周防内侍
74 憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ 激しかれとは 祈らぬものを     源俊頼朝臣
75 契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり   藤原基俊
80 ながからむ 心も知らず 黒髪の 乱れてけさは ものをこそ思へ   待賢門院堀河
81 ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる   後徳大寺左大臣
82 思ひわび さても命は あるものを 憂きに堪へぬは 涙なりけり   道因法師
83 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる   皇太后宮大夫俊成
85 夜もすが もの思ふころは 明けやらぬ ねやのひまさへ つれなかりけり   俊恵法師
86 嘆けとて 月やはものを 思はする かこちがほなる わが涙かな   西行法師
88 難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ 身を尽くしてや 恋ひわたるべき   皇嘉門院別当
90 見せばやな 雄島の海人の 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色は変はらず  殷富門院大輔
92 わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね かわく間もなし  二条院讃岐
95 おほけなく 憂き世の民に おほふかな わが立つ杣に すみ染の袖   前大僧正慈円

資料
1. HP・百首歌のはじまり[小倉百人一首あ・ら・かるた]
2.『光琳カルタで読む 百人一首ハンドブック』監修:久保田淳 小学館
3. HP・「百人一首之内 崇徳院―仮想空間」

掲載日:2017年(平成29)6月27日(火)晴

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