隅田川のほとり・・・豊島PartU「六義園逍遥」

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zoom RSS 六義園の能見石 

<<   作成日時 : 2017/03/22 09:53   >>

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76 能見石(のうけんせき)

藤代峠に、金岡が硯石有(あり)とかや。
又、能見石と名付(なづく)る事は、

『万葉』に
玉津嶋よく見ていませ青丹𠮷(あおによし)
奈良なる人の待(まち)とはゞいかに


「能見」は、よく見るなり。
「見石」の二字は、「硯」の分字なり。
また、鎌倉の「筆すて松」に、能見堂あり。
かたがた、おもひ合(あわせ)て。

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能見石(76 のうけんせき)は、六義園八十八境の一つ。藤代峠で天才的画家が用いた硯石と万葉集(作者未詳)の「よく見ていませ」の歌から造られた境です。「よく見て」は、玉津島を詠んだ歌でもあり、万葉仮名の歌詞の中にある「能く見る→能見」の表記でもあります。

『万葉集』巻七 ・ 一二一五 
玉 津 嶋 能 見 而 伊 座 青 丹 𠮷 平 城 有 人 之 待 問 者 如 何
たまつしま  よくみていませ    あをによし ならなるひとの    まちとはばいかに

◇訳:玉津島をよく見ていらっしゃい。(あおによし)奈良の都の人が待っていて聞いたならどうお答えになりますか。(資料1)
◇「あをによし」:枕詞。 1 「奈良」にかかる。奈良坂で顔料の青土を産したところからという。「―奈良の都は」  ( コトバンク<デジタル大辞泉) ・参照→「24紀川」
◇分字(漢字を二つに分けた漢字を言う):硯→ 石と見る、嵐→ 山と風、梅→木と毎 
◇と−か−や:連語(格助詞「と」+係助詞「か」+間投助詞「や」) A〔文末の場合〕…とかいうことだ。(学研全訳古語辞典)

【金岡の筆捨松】
平安時代の9世紀末、宮廷絵師の巨勢金岡(こせのかなおか)が熊野への旅の途中、藤白坂で1人の童子と絵の描き比べをすることに。金岡はウグイス、童子はカラスを描いたが、甲乙付けがたい。手をたたくと、ウグイスとカラスが絵から飛び出し、2人が呼んだところ、童子のカラスは絵に収まった。しかし、ウグイスは帰らず、金岡は「無念」と筆を投げ捨てた。童子は熊野権現の化身だったと言われている――。筆は「投げ松」のところに落ち、以来「筆捨松」と呼ばれています。
◇投げ松
「筆捨松由来紀」に、第34代舒明天皇(629年〜641年)が熊野へ行幸の途中、藤白峠で王法の隆昌を祈念し小松を谷に投げられた。帰路小松が根づいていたので吉兆であると天皇は喜ばれた。以来「投げ松」と呼ばれていた。との記載があります。(十四丁石地蔵のそばにある松は、当時のものではありません。何代目の筆捨松でしょうか。)
◇金岡の硯石
この筆捨松の脇に硯型の巨大石が設置されたのは約四百年前。1742年ごろに書かれた「名高浦四囲廻見」によると、17世紀に紀州藩主・徳川頼宣が巨勢金岡の筆捨松の伝承を聞き、熊野古道・筆捨松隣りの自然の大石に硯の形を彫らせたということです。19世紀に編纂された「紀伊国名所図会」にも記されています。
 この硯石は、1983年の集中豪雨で土砂と共に流され埋まってしまいましたが、1995年に発見され、現在は掘りおこされて歴史的遺産として歴史のロマンを後世に伝えています。
(資料2) 
画像
図:六義園の擲筆松 藤代根(藤代峠)の隣の「老峯(おいがみね)」にありましたが現在はありません。(国会図書館蔵より)
画像
図:六義園の能見石 絵図から藤代峠の西南にあることがわかりますが、これだと確定された石はありません。(楽只堂年録の附図)
参考:→ 紀州和歌浦紀行ー23.藤白坂の十四丁石地蔵・筆捨松・硯石

【鎌倉の筆すて松と能見堂及び金沢八景】
◇筆捨松
平安時代前期の宮廷画家である巨勢 金岡(こせ の かなおか、生没年未詳)が、金沢の景色を描こうとしたが、あまりの美しさと潮の満ち干の変化のため描けず、筆を松に投げ捨てたとの伝承から。
◇能見堂
江戸時代(天明年間:1780年代)に記された『金澤能見堂八景縁起』では、平安時代に藤原道長が結んだ草庵を始まりとすると記されているそうです。その名の由来としては、よく見える(能く見える)からとか、その時にのけぞったから(のけ堂)とか、地蔵を本尊とするため六道能化の意味から取ったからなど、その他色々な説があります。(資料3) 
能見堂は、寛文年間(1661〜73)に、当時の領主久世大和守広之(くぜやまとのかみひろゆき)が、芝増上寺の子院を移設し、地蔵菩薩を本尊として再興した擲筆山(てきひつざん)地蔵院のことです。
◇金沢八景
金沢の景勝は中世において既に知られていましたが、 金沢八景の命名者は、明からの渡来僧、心越禅師(しんえつぜんじ)が故郷の景色を偲んで、ここから見た金沢八ヶ所の勝景を漢詩に詠んだことで、『金沢八景』の場所と名称が定まりました。心越は元禄時代、徳川光圀に招かれて、水戸祇園寺の開山となった人ですが、心越が金沢に来たのは、元禄七年(1694)といわれています。
 これ以降、多くの文人が金沢八景の地を訪れるようになり、19世紀には庶民が遊山に来るようになりました。また、歌川(安藤)広重によって描かれた「武州金沢八景」八連作が、より金沢八景を世に広めました。(資料4)
画像
能見堂図: 新編武蔵風土記稿 巻之76 久良岐郡乃四 金澤領。右上松の下。(1804〜1829年、化政文化の時期に編まれた武蔵国の地誌。国立国会図書館デジタルコレクションのトリミングデータ。)

【覚え】
◇巨勢 金岡(こせ の かなおか、生没年未詳)
平安時代前期の宮廷画家。日本画独自の様式を追求・深化させ、唐絵の影響を脱した大和
絵の様式を確立させた功労者とされる。
宇多天皇や藤原基経といった権力者の恩顧を得て活躍した。貞観10年(868年)から同
14年(872年)にかけては宮廷の神泉苑を監修し、その過程で菅原道真や紀長谷雄といった知識人とも親交を結んだ。
◇「紫石硯」と「藤白墨」
硯(すずり)は、墨を水で磨りおろす為に使う石等で作った文房具で、中国では紙・筆・墨と共に文房四宝(ぶんぼうしほう)のひとつとされています。現在の形は、中国六朝時代の終わりに石製の硯が登場し、宋代に普及して現代に至っています。日本で石製の硯は11世紀から見られるようになったそうです。
藤白では特産品として「紫石」が採れ、朝廷で使われる高級な「紫石硯」が生産されていました。中国の墨の技能師の「方氏」が移住して来ており、姥目樫から採れる「藤白墨」と共に朝廷に納めていたようです。(資料5)

資料
1.紀伊万葉ガイドブック 和歌山県観光振興課 監修:村瀬憲夫
2. HP:ニュース和歌山>筆捨松隣りに巨大硯石
3.HP:鎌倉遺構探索: 能見堂跡
4.HP:横浜市金沢区 横浜金沢観光協会
5. HP:青木名字苗字家系家紋ルーツ由来>藤白墨と藤白の紫硯石の研究(墨部の存在)
藤白墨と藤白の紫硯石の研究

掲載日:2017年(平成29年)3月22日(水) 晴

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